Wenn ich bin ・・・2009/03/05 23:58

妙な天気が続きます。
2月の雨はあまりにも冷たく、
凍りつくような黒いアスファルトを見るのなら、
いっそ雪にでもなれば、凍える土は白くなり、
少しは冬らしい温もりのある寒さでしょうに。

そんな天気が始まった日に亡くなりました。
敬愛する歌手です。
その日から、日を置いて今日が通夜。
ずっと沈みがちな気分は天気のせいではなく、
このことが要因。
人は差別されること無く生き、
分け隔てなく尊い命である事は理屈ではわかります。
でもやはり、居なくなっては困る人はいるのです。
これはその人の価値でしょうか、
その人と関わりを持てた者たちの距離でしょうか。
いずれにせよ、私にとっては近くて尊い方。

何年も一緒に仕事をしながら、
彼女しか出来ないライフワークに携わった。
それは、仕事を超えた、人間の底の探し合いであり、
情に流されない、本気のぶつかり稽古でもあった。
そんな時期を一緒に過ごさせてもらうと、
半年や1年会わなくても会話が成り立つ同級生のよう。

亡くなったなんて信じなかったが、今日会ったら、
やはり、眠っているようでした。
ゆっくり寝ている顔なんて勿論見たことも無いが、
静かな寝姿を見ると、なおさら騙されている様。

行き所のない憤りは収まらず、
何もせずにボーっとして居たいが、
周囲の時間は止まらず・・・。朝が来て、仕事が押して、
時間が流れて、笑ったり、しゃべったりしなくてはいけない。
なんて虚しいこの世だと、思うが、
これが人間であり、全力で駆け抜けた彼女がいる、
と思うと、留まっている場合ではないのか。

会場に流れていた彼女の歌声のCD。
とことん稽古した曲も聴こえて来る。
Friedrich Hollaenderの才能に陶酔していた我々は、
様々な協力も得て、1930代のベルリンを再現すべく、
音楽に拘り、言葉に執着しながら、
彼女が歌うべき名曲を、一緒に紡いでいった・・・。
<Wenn Ich mal tot bin.>「もしあたいが死んだら」
あまりにも貧困と恵まれない環境に置かれた少女が、
自分が死んだなら、どんなにか幸せになるだろか、
と歌う曲である。
周りも、自分も、去ることで幸せはやってくる・・・。
当時は、この〔哀れな少女〕と題されたHollaenderの曲は、
時代も状況も、自分とは離れたものであり、
芸術的な哀れな悲歌を名曲として震えたが、
こんな曲を歌っている彼女の音が式場に流れると、
どうしようもない気持ちになる。
「周りはちっとも幸せではないぞ!」と。
本当に悔しい、悔しい・・・。
冥福を祈っても祈っても、悔しさばかりが先に立つ。

永遠なれ。
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